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中世には千田莊と呼ばれた地帯の中心で、千葉氏が支配した。室町時代の康正元年(1455)、亨徳の乱による戦乱の中、千葉氏内部でも宗家をめぐる争いが勃発。関東管領を支配する千葉宗家・千葉胤直の居城・千葉城は、足利成氏派の原胤房、馬加康胤の攻撃で焼け落ちる。胤直、胤宣父子は千田壮へ逃れ再起を図るが、立て籠もった多古城、島城とも落城。胤直、胤宣父子は自害し果てた。これで名族千葉氏宗家の流れは2筋に分かれ勢力を失い、房総も戦国乱世へ突入した。天正18年(1590)、関東に入国した徳川家康は多古に保科正光を1万石で置く。慶長6年(1600)の関が原の戦いの後、2万5千石に加増され、故郷の信濃国・高遠へ転封となる。その後、百年ほど廃藩となり、天領や大名領などを経る。 寛永12年(1635)、旗本・松平(久松)勝義が上総国武射郡、下総国・香取郡内に8千石を与えられ多古を居所とした。城下町・多古の再スタートである。 その後若干加増され、2代後の勝以が正徳3年(1713)に大坂定番に昇進。摂津国内に3千石を加増され、1万2千石の大名となり多古藩が成立した。嘉永2年(1849)多古藩は大事件に遭遇する。国禁を犯し幕府より預かりを命じられ、陣屋内の牢に置いた唐大通事・神代徳次郎に脱獄されてしまう。家老は切腹し藩主・勝行は閉門を命じられる。閉門は半年後解かれるが、上総、下総国内の領地1万石余りを上知した代わりに陸奥国内に8千石余を与えられた。つまり差引、2千石の減封。多古藩はなんとか廃藩置県を迎えた。 多古第一小学校の敷地が多古城の東の一画である。江戸時代、1万2千石の多古陣屋が置かれた場所で、明治時代まで水堀が巡らされ、朱色の橋が架けられていたという。房総では珍しく石垣が組まれていた。現在も石垣の一部が残り、江戸時代を忍ばせている。藩主松平(久松)氏は徳川家康の異兄弟にあたる勝俊を祖とする格式高い家系である。石高は低いが、いわゆる「家門」、広い意味では「親藩」である。つまり、お大(伝通院)は松平広忠に嫁いで家康を生むが、家康が3歳のとき、広忠はお大と離縁する。これはお大の兄・水野信元が織田方に付いたため、今川方の広忠は疑いを解くためお大と離縁した。その後、お大は久松俊勝と再婚し3男と4女をもうけた。後に家康は康元、勝俊、定勝の3兄弟と対面し、彼らに松平の姓を与えた。 |